一般人とプロの覚悟の違い
一般人の視点
私はよくYouTubeでプロのピアノ演奏動画を見て、これだけ上手く弾きたいなと思うことが何度もある。聴衆かつピアノサークル所属の私の視点から見ると、あそこまで綺麗に弾けたらモテそうとか、早く指が動けばカッコいいなどの憧れが存在する。ピアノに限らずスポーツ全般においてもプロは存在し、憧れの対象として見られることが多い。
プロの視点
ではプロにとってはどうなのか。ピアニストの例で言うと、彼らは自身の演奏により人生における贅沢可能性が決定される。上手くなければコンサートに人が集まらず、順位が高くなければ賞金は減る。ピアニストにとっての練習は、1日サボると自分が気づき、2日サボると指導者が気づき、3日サボると聴衆が気づく。このようなメンタリティを持って練習しているらしい。すなわち、我々とは同じピアノに対しても姿勢と覚悟がまったく違うし、私はこのような意識でピアノに取り組んではいない。
私たちはプロの完成され尽くされた姿だけを見て憧れを抱いているが、それは氷山の一角に過ぎず、我々の死角の位置でとてつもない努力を重ねている。
プロに憧れるのはまったく悪いことではない。しかし、プロになろうとするにはそれほどのしんどい努力と覚悟が必要になってくると思う。
12月の過ごし方
なんともこんな早いことにもう12月となってしまった。
1ヶ月という時間を効率的に過ごすためにざっくりと以下にすべきことを記しておく。
課題
何かのために役立つ感じではないので、ぶっちゃけやっつけ仕事でもいいレベル
・線形、解析学レポート課題
・英語のボーナス問題を解く
・C言語のレポート
・物理学実験レポート(22日まで)
・情報数学レポート(23日まで)
自主勉強
1月の中旬に期末試験があるので、これは真面目にやらなくてはならない。
・マセマの最後の二章→授業演習プリント
・マセマの最後の一章→授業演習プリント
情報数学
・マセマの該当範囲(特に確率が多く出る)
・授業演習プリント
総括して言えることは、中間は演習プリントまではやったが過去問にあまり手をつけなかったため、時間配分を考えずその場の応用力だけで解いてしまった。それから、演習プリントには計算や過程が煩雑すぎて試験には出なさそうな問題も載っているので、よく過去問を吟味して捨てていかなければならない。
ピアノ
12/25の定期演奏会の準備にフォーカスする。練習する曲はラカンパネラで、自分の演奏を録音してプロと聴き比べてどの部分にミスが多いかを把握する。また、プロ以外はノーミスで弾ける曲じゃないので、ミスを許容範囲を明確にする作業も必要である。
木枯らしの譜読みは継続するが、定期演奏会の1週間前には一時中断をしてラカンパネラに絞る。
まとめ
12月は非常にやるべきタスクが多く、一つ一つにおいて多くの思考を要求されるものが多いため、1日毎にコツコツとやるしかない。一気にやっても脳が疲れて効率も悪くなる。
ちなみに彼女はできるわけない
ピアノ上手くなりたい
私はとにかくピアノが上達したいのだ!!!!
私はそのための努力ならなんだってする。必要だと思ったなら本も読むし、当然練習は怠らない。
ちなみに、ちょうど一昨日学園祭があり、ありがたいことにたくさんの人が僕のラ・カンパネラをオーダーしてくれた。1日に何回も弾くと流石に腕が死ぬのだが、、、、、。
しかし1ヶ月後のクリスマスにはサークルの演奏会があり、もう一度ラ・カンパネラを弾くのだ。プロが弾くようなクソでかいホールでスポットライト浴びて弾く。めちゃくちゃ緊張するし、年に一度しかないので失敗はしたくない。
大学入学記念に譜読み始めた思い出のあるラカンパネラを成功させたいのである。
まずはテンポを一定に保つところからスタートし、ミスタッチはプロじゃないと無くせないが極力減らし、バレないような工夫もする。(実際は案外バレない※学園祭の検証により)また、情景が変化する部分は終わりを丁寧に弾くよう心がける。最後の盛り上がりはカッコよく意識する。
12月は期末の勉強もあるが、どうやらピアノで忙しくなりそうだ。とてもワクワクする!!
ウッホウッホウッホウッホウッホウッホ
安定を崩す覚悟はあるか
私は、自然の摂理として、
進歩する=安定を崩す
という公式みたいなのが自然界全体で成り立っていると思う。
最も身近な例では、徒歩が挙げられる。人は歩く時、絶対に片足をあげないと前に歩けない。すなわち、人が前へ歩くためには「バランス(安定)を一時的に崩している」のだ。
投資も同じだと思う。損したくない感情が先に出て投資を躊躇していてもお金は増えない。必ず今あるお金の安定を崩し投資しないと利益は得られない。
さらに告白も同じだ。当然告白しなければ友達関係という安定が保てるが、ここでこの安定を崩し告白することによって、恋愛関係を手に入れることができる。
他にも例はたくさん挙げられるが、これまでの例ひとつひとつにおいて全く現象は異なるが、全て上で挙げた公式通りであるように思える。
結論
進歩したい、成功したいと思うならば、同時にそれは安定を崩さないといけない。これをしっかり受け入れた上で、あとは自分の度胸と勘を信じればいい。
プライドは捨てた方がいい
自分はいわゆる陰キャ大学に入ったことにより、プライドが無くなった。しかし私はこれをとてもポジティブに捉えている。
プライドは成長の邪魔になる
私は浪人時、自分の頭がいいと錯覚しとてもプライドが高かったため、問題を解いて間違えても素直にミスを受け入れたくなかった。その結果当然学力は向上しなかった。簡単な計算テストもよくバカにしていたが、実際そのテストですら点数は高くなかった。また、私は高校の時、このクラスでピアノが1番上手いと思っていたが、いざ弾いてみるとそのプライドによるプレッシャーが邪魔をし上手く弾けなかった。
プライドが高いと人の目が余計に気になり、目の前のことに集中できなくなり、それでミスをするのだ。
プライドを捨てるメリット
簡潔に言うと、成長する過程で常に冷静になれると思う。どんなに簡単な大学の入試問題でも、バカにせず丁寧に計算すれば結果的に満点取れるし、スポーツの大会でどんなに格下な対戦相手でも手を抜かず冷静に得点を稼げば結果的に勝てる。
結論
プライドを捨て、自分のミスをミスであると認める文化を備えることで、感情的に落胆することを極限まで減らし、結果成長できるのだと思う。
客観視の重要性
何かで成功してる人たちに共通する考え方として、客観視するというものがある。
私自身挫折しかけた時、それに対する改善策が思いつかなかったりするが、友達に向けてのアドバイスはなぜかすぐ思いつくし、しかもかなり有力な情報を提供できる。
簡単な例で言うと、ピアノを教えた友達が私のおかげでコツを掴み弾けるようになったが、実は自分はその通りにできていなかった。他人へのアドバイスがいいものでも、自分でその通りにできてきないことはよくあるのだ。
私は、1人でやるにせよ協力するにせよ、人が成長するためには客観視された上でのアドバイスが必要だと思う。
塾に通い学力向上した生徒、コーチに習い上達したスポーツマン、これら全て成長という過程の上で客観的アドバイスが存在する。
独学は善か悪か?
独学の場合、客観視するのが非常に難しい。しかし工夫次第で容易になる。例えばピアノならば、自分の演奏を録音して客観的に聴いてみる。スポーツなら、自分のフォームを動画で撮ってもらいクセを治す。勉強なら、模試の結果や偏差値は頑張り具合ではなく数値的なデータをベースに読み取るなどである。
結論
私の意見だが、やはりある分野で結果を出したいなら、同じ分野で結果を出したことのある指導者をつけるべきである。独学でも工夫次第でなんとかなるが、自分のできたという目線と、プロのできたという目線が一致しない限りどこまでも自分に甘くなる。しかし、指導者をつけるためにお金がかかることが多いため、経済的に苦しいのであれば自分でやって、それを通して自分の能力も上げていけばいいと思う。
指を早く動かすには?(ピアノ)
よくピアニストが速いテンポのパートを弾く時とても早く指が動いているように見える。
私が練習する時、ひとつひとつの独立した指を早く動かそうと意識すると動かない。
しかし、パーの手から素早くグーの手に握ることは可能であり、この作業において握る指をひとつずつずらすという意識に変えると、不思議と指が早く動くようになる。
これは、一気に握るついでに指をずらすという意識の方が、独立した指をひとつひとつ早く動かそうとする意識よりも、神経細胞をエコに使えているからだと思う。
また、指の速さは神経細胞の個数に比例するが、実は素人もプロもその数は同じである。では何が違うのか。それは、まさに神経細胞1つを比べても素人より消費する量が少ないということだ。プロにとって指を早く動かすのは我々にとって歩くレベルで容易なのである。